志賀公園について
名古屋市北区の平手町にある志賀公園(しがこうえん)は、平手政秀宅址(ひらてまさひでたくあと)を中心に造成された廻遊式庭園の公園です。
昭和5年(1930)に周辺一帯で土地区画整理事業が始まり、その事業の一環として志賀公園の造成工事(※1)が行われました。公園は昭和9年(1934)に名古屋市に寄贈され、以後、公園区域の拡張整備が進められ現在に至ります。
※1.公園造成中に大量の弥生土器が発見され、弥生人渡来を立証したことから考古学界で注目されました。現在、遺跡(志賀公園遺跡)を示す面影はありませんが、出土品の一部は市博物館と金城小学校に展示されています。
志賀公園の写真
【志賀公園入口、後ろは志賀公園野球場】
志賀公園を見学
名古屋城から北へ約2キロメートルほどの所に志賀公園があります。ここは戦国時代の末、平手政秀が館を構えていた場所として知られています。現在は公園として整備され、その中心には平手政秀の彰徳碑と平手政秀屋敷跡の石碑がたっています。
【志賀公園の池】
志賀公園の広大な敷地には、落ち着いた日本庭園が保存されています。満々と水をたたえた池を囲むように庭園が造られているので、池のまわりを歩きながら鑑賞するのもお勧めです。なお、志賀公園には庭園の他にも、野球場やゲートボール広場、遊具施設、ハーブガーデンなどがあります。
【平手政秀邸址】
平手政秀ゆかりの地
織田信秀の重臣・平手政秀(ひらてまさひで)は、信秀の子・信長の守役を務めていました。若き日の信長は「大うつけ」と呼ばれたように素行が悪く、政秀は日ごろからこれを諌め(いさめ)ていました。
父・信秀の死後もその行いを一向に改めず、信長の将来に絶望した政秀は、天文22年(1553)正月13日、信長宛ての諫言を残しこの地で自害しました。信長20歳、政秀62歳でした。信長はその死を悼み、一寺を建てて、政秀寺(せいしゅうじ)と号して厚く菩提を弔いました。
【尾張藩士が建てた「平手政秀の彰徳碑」】
平手政秀の彰徳碑
この彰徳碑は、享和2年(1802)に尾張藩の有志が平手政秀の忠誠をながく伝えるために建立したものです。さらに大正5年(1916)には、愛知県が平手政秀邸址であると証する碑、平手政秀邸址の石碑を建てました。
志賀公園のご案内
名称 | 志賀公園、平手政秀宅址(しがこうえん、ひらてまさひでたくあと) |
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場所(住所) | 愛知県名古屋市北区平手町2 地図で確認 |
料金 | 無料 |
交通アクセス | 【電車】地下鉄名城線「黒川駅」下車、徒歩10分 |
駐車場 | 駐車場あり |
備考 |
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